【短編小説】 「えんか」 ④ | 失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

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自ら作家と名乗る人間にろくな者はいないでしょう,他の方はともかく。私は2000年、脳出血を患い失語症になりました。そしてリハビリの一環として文章書きをしています、作家のように――。
何はともかく、よろしく!  (1941年生まれで、現在・80歳になる単なるじじい)

 

 

 

 

【短編小説】

「えんか」  ④

 

 

 

 

 康宏が勤めている会社は、社員三百人ほどの中規模商社だが、主にヨーロッパ方面の家具類を輸入していた。所属は経理部でデスクワークが主な仕事だが、どちらかと言えば内向的な康宏に合う職種で、戸惑うことも無く仕事が出来た。

 

 

 

また大学のOBとして三上常務と中村営業課長がいたが、常務は時々、営業課長と康宏を誘いカラオケに行った。常務のお声がかりとなれば断るわけにはいかないが、仕事の話はほとんどなく、ただただ歌うだけだから気楽な時間で楽しかった。

 

 

常務は大学時代、ジャズバンドを結成し、ボーカルを担当していたという。しかしプロになる自信はなく就職活動を始めた段階で解散した。さすがに歌唱力は半端なものではなく、歌に説得力がある。営業課長も康宏も、お世辞でなく感服して聞き惚れていた。

 

 

 

 

 それに常務は、二人に気付かれないように誘ってくるが、嫌なことや都合の悪いことがあると招集をかけてくる。営業課長は勘を働かせて都合の悪いことの内容を探るが、知っても決して口には出さない。営業課長は四十半ばになる。次のポジションを考えると軽々には動けないだろう。康宏も想像するがまだ先のことで関心は薄い。

 

 

 

それと常務は派閥を作って勢力の誇示を計るタイプではない。営業課長にすれば、先々のことを考えると、「大学のOB」、「役員のコネ」、両睨みで付き合っている感じだが、狡猾な気持ちは無かった。だが三人とも気の置けない間柄だが、心の中には様々な事情を抱いていた。

 

 

 

「常務、何時もの曲から行きますか」

「そうだな」

 

 

 営業課長が選曲の機器を操作し、数曲の歌をインプットした。勿論自分の歌や康宏の歌も分かっているから入れる。康宏はアルコールとつまみの係で、好みを聞くとフロントへ電話を入れた。

 

 

カラオケからイントロが流れてくる。常務はマイクを握って、ジャズのスタンダード・ナンバー、「サマータイム」を原語で歌い出した。勿論歌詞は頭に入っているから画面を見る必要はない。静かな歌い出しだが説得力のある声だ。

 

 

常務は大学の頃のステージを思い出しているのだろう、と康宏は想った。営業課長も康宏もそれなりに歌えるが常務には負ける。聞き惚れて終わると心から拍手を送った。

 

 

 

 一時間ほど経ったとき、常務が課長に次の歌を注文した。

 

 

「中村君、八代亜紀にしてくれないか」

「え、もう帰るんですか」

「ちょっとな」

 

 

 営業課長が、八代亜紀が歌い大ヒットさせた「舟歌」をインプットした。常務はほとんどジャズのナンバーかフォーク、ラテンを歌うが、決まって帰る前は演歌の「舟歌」を打ち止めとして歌っていく。

 

 

 

 以前、康宏が不思議に思い訊くと、

 

「いい曲だろう。お酒は~ぬるめの燗がいい~、肴はあぶったイカでいい~。私はね、演歌が嫌いで歌わないんじゃないよ。お前の齢では解らないだろうけど、演歌は日本人の原点だな。二十年、いや十年経てば解ってくると思うけどね」

 

 

 

 イントロが流れてくると、常務はマイクを口先につけて、歌詞を噛みしめるように歌い出した。その響きには、ジャズやラテンと違って、康宏が小さい頃から慣れ親しんだ情感を含んでいる。

 

 

また常務は帰るとき三人分の料金を出してくれたが、残された二人はそのまま歌い続けるか、場所を変えて飲むか、その時の具合で決めていた。

 

 

 

 

「常務は真っ直ぐ帰るんですかね」

「さあ、分からないな」

「ひょっとして、愛人のところなんか……」

「どうかな、愛人はいないよ。常務というポジションは厳しい立場だよ」

 

 

 

 

 取締役の年限は通常二年間だが、業績が挙がらなければその場で責任を取らされる。それに実権を握っている社長派と、反対勢力の専務派がしのぎを削っている。常務はどちらにも与しない態度を貫いているが、それも大変な立場で、神経が擦り切れるだろうと営業課長が説明してくれた。

 

 

 

「だから、たまには思いっきり歌が歌いたいんじゃないのかい」

「営業課長も近々役員でしょ」

「まだまだ先だよ。出世を望まない奴はいないけど、運もあるからな」

 

 

 

 

 

 それから一カ月ほど後、康宏は中川夫妻を部屋に招いて離婚の相談をした。もっとも康宏の気持ちは決まっているが、その後の智子の様子はどうなのか、ふさぎ込んでいないのか聞きたい。また離婚の段取りや手続きなどを決めなければならない。

 

 

 

 美香子が智子のその後を話した。

 

「元気にしているわよ。ますますフラダンスに夢中って感じね。智子ね、基本的には体育会系なのよ。だから決めたあとはうじうじしないし、前を向いているわ」

 

 

 

 絵の同好会に入会したのは、私が頼りないから付き合ってきたので、身体を動かすことが好きだった。従って結果が離婚となっても後悔しないという。

 

それにまだ構想の段階だけど応接間を改造し、ダンススタジオを造る積りだ。実家の両親も納得しているから資金は大丈夫で、智子なら絶対やるだろう。美香子は重ねて付け加えた。

 

 中川も続けて言う。

 

「康宏君に条件があったら言ってよ。橋渡しをするから」

「条件?」

「慰謝料とか、財産分与とかあるだろう」

「財産分与という程のものはないけど、家具類なら引っ越しのときで済んだよ」

「慰謝料は」

「慰謝料か……」

「智子なら貰わないと思うわ」

「お前はどうなんだい」

「俺? 俺は貰えないよ。言い出したのが俺だもの」

「じゃあ話は簡単ね」

 

 

 美香子はサラッと言ったが、智子とはかなり以前から、こうなることを想定して、話を進めていた感じでもある。

 

 

 

「でもな、康宏。離婚になっても俺たちの関係は続くんだから、その辺をな」

 

 どこかで不意に会うことがある。一生音信不通なんて訳にはいかない。覚悟を決めておかないと不味い。中川は諭した。

 

「そうだね、暗い顔はしないよ」

 

 

 

 

 話が済むとあとは雑談になり、三人は缶ビールを開けて喉を潤した。子供は脇ですやすやと寝ている。三時間ほどいて中川親子は帰ったが、仲介のお陰で、康宏と智子は別居後三カ月で正式に離婚となった。

 

(つづく)