【短編小説】 「えんか」 ⑥ | 失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

自ら作家と名乗る人間にろくな者はいないでしょう,他の方はともかく。私は2000年、脳出血を患い失語症になりました。そしてリハビリの一環として文章書きをしています、作家のように――。
何はともかく、よろしく!  (1941年生まれで、現在・80歳になる単なるじじい)

 

 

 

 

【短編小説】

「えんか」  ⑥

 

 

 

 東中野は中央線で新宿と中野の中間にあるが、起伏に富んだ地形で、駅周辺にはレストランや昔の風情の飲み屋が残っている。そこを過ぎると一戸建てやマンション、アパートなど住居が密集している。また離婚後一年が過ぎたが、智子の頑張っている姿を知らされても素直に喜べる心境になっている。

 

 

 

 

 

街になじんだ康宏は、仕事が早く終わったときやもう少し飲みたいときなど、帰る途中にある焼き鳥屋「呑ベー」へ入った。その店は父親と娘の二人でやっていて、お客さんが十五人ほど入ると満員という大きさで、特に九時を回ると空くから、そんなとき康宏は、親子を相手に雑談に耽った。

 

 

「今日は忙しかったの」

「うん、ちょっとね」

 

 

 

 娘の名前はカヨちゃんといい、愛くるしい顔をして髪を後ろで束ね、ねじり鉢巻きをキリっと締めていた。それにはっぴ姿がいなせできびきびと働いている。

 

 

「忙しい方がいいよ、仕事はな」

 

 マスターである父親も口を挟む。

 

「でも遊ぶ時間が無くなるものは詰まらないわよ。ねえ木村さん」

 

 カヨちゃんが康宏に同意を求める。

 

「そうだね、遊べるのは若いうちだけっていうからね」

 

 

 

 他愛もない会話だったが、店に寄った日はぐっすりと眠れた。

 

 

 お客も屈託のない人の集まりで、どこの誰なのか分からなくても自然に親しくなり、会話が弾んだ。また客のほとんどは中年の男性だったが、一杯ひっかけることでその日の労を癒し明日の活力を得ている感じだった。

 

 

 そんな中で紅一点、二十六歳になるカヨちゃんはかいがいしく動いている。たまに注文を間違えると、「私間違ったけど誰か食べてくれない」と声をかける。すると誰かが声を上げて「俺が貰うよ」と言う。「ごめん、押し売りをしちゃって」。誰も文句を言わない。

 

 

 

 

 そんなある日、康宏が店に寄ると可愛らしい猫の絵が壁に飾られていた。サインを見ると八代亜紀とある。

 

 

「マスター。これって、八代亜紀さんの絵じゃないの」

 

「分かりますか」

 

 マスターは顔全部を笑顔にして言う。九時を回っているので客は誰もいない。

 

 

「マスターってね、二十歳のころからフアンクラブに入っているんですよ」

 

 

 

 今では何かにつけて「うちの八代が」、「うちの八代が」と身内のように言う。カヨちゃんは康宏がキープした焼酎のボトルから、酎ハイを作りながら呆れ顔を見せる。

 

 

 そこで康宏は、常務のことを話した。

 

 普段はジャズなどを歌っているが、最後の一曲は必ず八代亜紀の「舟歌」を歌って帰る。若い時は気づかないが、演歌は、日本人のソウルミュージックみたいなもので、いずれお前も気づく時がある筈だ。絵も素人芸を超えた立派なものを描くと教えてくれた、と。

 

 

 マスターは、康宏の言葉を一言一言頷きながら聞いていたが、

 

「木村さん。その人は良い人だよ、この先常務さんに付いていれば間違いないよ」

 

 と目を輝かせる。

 

「お父さん。演歌が好きなら良い人なんてオーバーよ」

 

「何を言っているんだよ、そこまで八代を理解している人に悪い人はいないよ」

 

 

 更にマスターは、カウンターの隅に置いてあったチラシを見せて言う。

 

「木村さん。来週の日曜日だけど暇がありますかね」

 

「日曜日ならほとんど部屋にいますよ」

 

 それなら都合がいい――。その日八代亜紀が横浜でコンサートを開催するから、ぜひ観てもらいたい。チケットはここにあるから進呈すると続けた。

 

 

「お父さん、一枚じゃ駄目よ、ガールフレンドの分もあげなさいよ」

 

「あッ、そうだな」

 

 それを康宏は慌てて否定する。

 

 

「そんな人はいませんよ」

 

 するとマスターは、カヨちゃんの方を向いて「じゃお前が行くか」と訊く。

 

 

「それじゃあ、カヨちゃんの恋人に怒られるんじゃないですか」

 

 

 康宏の言葉にカヨちゃんは、

 

「木村さん。私にそんな人がいたら、今頃こんなところで焼き鳥を焼いていませんよ」

 

 悪戯っぽい顔で答えた。

 

 

「じゃ二人で行っておいでよ。終わったら港の夜景を見ながら一杯もいいぞ」

 

「そこまで指示されなくても大丈夫よ。ねぇー木村さん」

 

 カヨちゃんは康宏に同意を求めながら、目が返事を待った。

 

 

 康宏は、

 

「カヨちゃんとデートが出来るなんて、光栄ですよ」

 

 言葉がスラスラと出た。

 

 

が、答えている途中から、嘗て経験したことのない気分の高まりを感じて心が熱くなった。

 

 

 ――俺は、こんな高揚感で智子を誘ったことが無い……。

 

 

 

 常に周りには中川や美香子がいて、改めて誘う必要がなかった。それに中川と美香子は激昂することもなく素直な康宏を、智子の最適の相手と考えていたから、陰になり日向になり応援していた。二人の結婚は自然の流れというものでもあった。

 

(つづく)